Thursday, 20 August, 2026г.
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西部ニューギニア戦線・川上政記マノクワリ~イドレ転進作戦証言(4)

西部ニューギニア戦線・川上政記マノクワリ~イドレ転進作戦証言(4)У вашего броузера проблема в совместимости с HTML5
昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、 ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島へ の敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力の およそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 第2軍参謀長の藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進は、結果的に"飢餓地獄"への 無意味・無慈悲な敗退行軍となった。一週間で到達できるとされた距離。しかし、実際には2~5ヶ月を要した。 木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵。戦わずして、1万数千もの将兵が草生す屍と化した。連合軍が"緑の地獄"と 称した、深いジャングルと熱帯病が"敵"の行軍。次々と斃れる将兵。一方、藤塚中将は、持病の痔の手術を理由 に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時の状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤 塚中将を恨みに恨んだと言われている。マノクワリからイドレへの転進は、先ず先行部隊として、海路で幾つか の部隊が移動。次いで、第2軍司令部の中枢が、航空機(マノクワリ→ムミ)、大発(大型舟艇・ムミ→ウェン デシ)、徒歩(ウィンデシ→イドレ)で退却の道を歩んだ。そして残りの部隊は、陸路をベラウ地峡へと向かっ た。あれから66年。イドレ周辺、そしてヤカチ川周辺に瞑る、約1万数千の旧日本軍将兵。あの当時から"放置" されたままの遺骸。昭和46(1976)年、厚生省は、このイドレ地区へ遺骨収集を試みた。しかしながら、過酷な自 然状況に阻まれ、その目的を果たせなかった。マノクワリからウィンデシへ水行、そしてイドレへ徒歩転進した 川上政記氏(満90歳)は、当時、第2野戦根拠地隊(稲田正純少将)隷下の「特設水上勤務第56中隊(藤井隊・ 約165名)」の軍曹だった。転進部隊としては最も遅い時期の出発だった。昭和19(1944)年9月1日、マノクワリ からベラウ地峡を目指した。 転進途中、隊長の藤井啓太郎中尉らは、敵軍の海上からの銃撃を受け戦死。さらに、小隊長の藤田福太郎少尉も 地元住民から攻撃を受け、自活していた農園で戦傷死。165名中、戦後祖国へ復員できた者は僅か10名。 イドレ到着以前、数ヶ月間を過ごした、地元住民から奪った農園で自活生活を送っていた頃、第14師団海上輸送 隊(元独立工兵第22連隊)第1中隊(芝崎中尉)所属の小田切重徳伍長と仲矢辰巳兵長が、農園直下の浜辺に到 達。川上軍曹は、この両名を農園での共生に誘った。現在山梨県甲斐市に暮らす小田切さん(89歳)は、その著 『白骨街道 死の転進』の中で、この邂逅を生に導いた幸運と記している。動画は、現在福井県鯖江市に暮らす 川上政記氏が語る『イドレ転進作戦』。 【参考動画】 西部ニューギニア戦線・遠藤定夫マノクワリ~イドレ転進作戦証言(1)~(15) http://www.youtube.com/watch?v=GpqBK6-Z_jM 西部ニューギニア戦線・小田切重徳マノクワリ~イドレ転進作戦証言(1)~(18) http://www.youtube.com/watch?v=GevHKqcWzTM 西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ~イドレ転進作戦証言(1)~(6) http://www.youtube.com/watch?v=Asdg4O6FodA
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